『さよなら絵梨』は2022年4月11日、少年ジャンプ+に掲載された読切です。ページ数は200ページ(出典: 電ファミニコゲーマー)。読切としては、かなりの厚みだと僕は思います。
この作品には、病院が吹き飛ぶ場面が3回出てきます。1回目は主人公・優太が母親の映像をまとめた映画の結末として。2回目は恋人・絵梨と作った映画の結末として。そして3回目は、物語そのものの結末として起きます。
多くの考察は、この爆発を「本当に起きたことか、作り物か」という二択で読みます。僕はその手前に、もうひとつ問いを立てたいんです。爆発の中身より先に、誰のカメラがそれを撮っているのかを見たい。
3回のうち、最初の2回は同じ手つきです。ところが3回目だけ、様子が違います。読切という短い枠に、これだけの仕掛けを詰め込んだ意味を、順を追って見ていきます。
「爆発は本物か」論争を、いったん脇に置く
『さよなら絵梨』の感想を追いかけると、いちばん多いのは「あの爆発は現実だったのか、映画だったのか」という問いです。次に多いのが「絵梨の正体は何だったのか」。この2つが、考察のほとんどを占めています。
どちらも面白い問いです。ただ、この2つを先に立てると、答えのない部分でずっと足踏みすることになります。作中にはっきりした種明かしがない以上、真偽も正体も、確定はできないからです。
だから僕はこの記事では、いったんこの2つを脇に置きます。真偽そのものではなく、「誰が撮っているか」という、作品の中で実際に動きを追える手がかりのほうを見ていきます。
爆発は、同じ手つきで2回描かれる
優太は、亡くなっていく母親から、最期までを撮って映画にしてほしいと頼まれます。編集した映画を親族の前で流すと、結末に病院が爆発する場面を足していました。悲しむはずの場でなぜこんな映像を、と親戚は怒ります。学校でも、母親の死を茶化したと責められました。
これが1回目の爆発です。素材は現実の記録なのに、結末だけは優太が付け足した作り物でした。事実の映像に、嘘の結末を継ぎ足す。この手つきが、作品の出発点に置かれています。
屋上で絵梨と出会ってから、優太はもう一度カメラを持ちます。今度は闘病中の絵梨を撮り、2人で映画を作る話に発展します。完成した映画を劇場で流すと、結末はまた病院が爆発する場面でした。
観客はまた気分を害し、席を立ちます。1回目とほぼ同じ理由で、優太は2回目も拒絶されるんです。この反復に、僕は偶然を感じません。爆発は優太という作り手のサインとして、作品の中で機能しています。
3度目の爆発だけ、カメラの位置が違う
物語の終盤、年老いた優太は、母が死んだあの病院に戻ります。そこで待っていたのは、歳を取っていない絵梨でした。長い年月をはさんで、2人はもう一度、あの部屋で向き合います。
この再会のあと、病院はふたたび爆発します。1回目・2回目と同じ舞台装置ですが、ここでの爆発は「映画の結末」として提示されていません。物語が動いている、その場で起きる出来事として描かれます。
ところが直後、画面の外からカメラらしき機材を構える手が入り込みます。今読んでいたこの場面自体が、誰かに撮られていたことを示すコマです。3度目の爆発が現実として起きたのか、また映画の結末なのか。ページの上では、最後まで決着がつきません。
3回という数字にこだわってみる
爆発は2回だけでもよかったはずです。実際、藤本タツキは3回目を用意しました。ここにはたぶん、意図があります。
物語の型として、同じ出来事を3回並べる手法はよく使われます。1回目で型を見せ、2回目で型を確認させ、3回目で型を破る。読者は2回目までで「またこのパターンか」と学習してしまうからこそ、3回目のズレに強く反応します。
『さよなら絵梨』の3回の爆発も、この並びにきれいに乗っています。1回目と2回目は、優太が結末に足す作り物として反復されます。ここまでで読者は「爆発=優太の演出」という型を覚えます。3度目は、その型を覚えた読者の前で、型そのものを崩しにくるんです。
だから3度目の爆発を読むときは、「またあの爆発か」で流さないほうがいいと僕は思います。型を覚えさせたうえで壊す、という仕込みそのものが、この短編の設計の中心にあります。
「絵梨は人間じゃない」説をどう扱うか
終盤、絵梨が長い年月をはさんでも歳を取っていないように描かれる場面があります。この一点から、絵梨は人間ではない何かだったのでは、という読み方が根強く語られてきました。
僕もこの読み方には説得力を感じます。ただ、正体そのものを断定する情報は作中にありません。藤本タツキ本人が設定を公式に説明した情報も、僕が確認できた範囲では見当たりませんでした。だからこの記事では、絵梨の正体が何かには踏み込みません。
大事なのは、正体探しより機能のほうだと思っています。歳を取らないなら、記録に頼らなくても覚えていられる側だということです。正体が何であれ、この機能が3度目の爆発の意味を変えます。
正体を確定できないという事実そのものが、実はこの記事の立場を後押ししています。絵梨が何であるかより、絵梨が優太に対してどう振る舞うかのほうが、テキストの上で追いやすいからです。振る舞いを追う考察のほうが、正体を決め打ちする考察より、僕は手堅いと思っています。
カメラを持っているのは、もう優太じゃない
多くの感想が、この最後の場面を「爆発は本当にあったのか」という真偽の問題として読んでいます。それも大事な補助線です。ただ僕は、真偽の手前にある「誰が撮っているか」のほうに賭けたいんです。
1回目と2回目、カメラを持って結末を作っていたのは、間違いなく優太です。自分の手で編集し、自分の手で爆発を足し、その報いを自分の身に受けていました。作り手の位置は、最初から最後まで優太に固定されています。
3度目だけ、この固定が崩れます。優太自身が撮影者だと確定できる描写を、僕は見つけられませんでした。年老いた優太の前に、老いていない絵梨が現れる時点で、時間の流れ方そのものが優太の手を離れています。
だとしたら、この最後の場面を撮って読者に見せているのは、絵梨の側かもしれません。優太が絵梨を撮り、映画にしてきた関係が、最後の最後でひっくり返る。これが、この記事で僕がいちばん言いたい読み方です。
作品全体が、映画のような横長のコマ構成で統一されていることも、この読みを後押しします。読者は1ページ目から、ずっとスクリーンの前に座らされていたことになります。3度目の爆発の後にカメラを構える手が映り込むのは、種明かしというより、最初からそこにいた事実を思い出させる仕掛けに近いと僕は感じます。
もうひとつ、細部を足しておきます。1回目と2回目の爆発は、観客の怒りという形で「これは作り物だ」と示されていました。周りの反応が、優太の演出であることを裏づける仕組みです。3度目には、そうやって真偽を教えてくれる周囲の反応がありません。判定役がいなくなることも、撮る側の交代を裏づける状況証拠だと僕は見ています。
「全部、優太の想像では」という読み方も検討しておく
3度目の爆発も含めて、年老いた優太が見た夢か想像だった、という読み方もできます。過去を思い返しながら、絵梨との再会を頭の中で描いている、という説明です。この読み方を取れば、カメラの持ち主が入れ替わる必要はなくなります。
この説の強みは、シンプルさです。優太ひとりの意識の中で完結するので、辻褄合わせに困りません。
ただ、この読み方だと、カメラを構える手が画面に入り込む意味が説明しにくくなると僕は思っています。想像や回想であれば、撮影する誰かの手が映り込む理由がありません。あの手は、優太の内面の外側に「撮っている誰か」がいることを示す、かなり具体的な符号です。
だから僕は、全部が優太の想像で片づく説より、カメラの持ち主が実際に動いたと読む説のほうに分があると考えています。もっとも、どちらを取るかは、最後は読む側に委ねられている部分です。
絵梨は覚えていて、優太は撮らないと覚えていられない
母親が優太に映像を頼んだ理由は、単純です。撮っておかないと、覚えていられないから。優太はその後もずっと、大事な人をカメラ越しに残そうとします。絵梨を撮ったのも、同じ動機の延長線上にあります。
一方、絵梨がもし本当に歳を取らない存在だとしたら、記録に頼る必要がありません。忘れないから、映画にしなくていい側の人間です。この非対称は、僕には最初からずっと仕込まれていたように見えます。
撮る側と撮られる側、忘れる側と忘れない側。この2つの軸を重ねると、優太が最後にカメラを手放しているように読める展開にも、筋が通ります。記録し続けなければ何も残せない人間から、記録しなくても残り続ける相手へ、物語の重心が移っていくからです。
記録することと、ただ生きることは、ときどき両立しません。撮っている間は、その瞬間をまっすぐ生きられないという声もよく聞きます。優太が最後にカメラを手放すとしたら、それは撮ることをやめて、ようやく絵梨の前にひとりの人間として立った瞬間でもあると僕は読みたいです。
チェンソーマン最終回の「器の継承」にも近い発想が、この短編にはすでにあったと僕は考えています(記事: チェンソーマン最終回、232話の自己捕食をどう読むか)。本体が消えたあとに何が残るか、藤本タツキが繰り返し試している問いのひとつです。
読み返すなら、どこで手を止めるか
「爆発は本当か嘘か」で立ち止まると、この短編は謎解きのパズルに見えてきます。でも僕は、謎を解く話ではなく、カメラの持ち主が入れ替わっていく話として読みたい派です。
読み返すときは、誰が誰にカメラを向けているかを、場面ごとに数えてみてください。優太が絵梨を撮っている場面と、絵梨が優太を見ている場面。その比率が、終盤に近づくにつれてどう変わるか。
ここに注目すると、最後にカメラを構える手が映り込む場面が、急に効いてきます。あれは反則技のどんでん返しではなく、物語がずっと積み上げてきた交代を、最後にもう一度見せているだけなんです。
同じ「創作が誰かの不在を埋める」というテーマは、『ルックバック』にも流れています。あちらは紙が2回、ドアの下をくぐる向きで語られていました(記事: ルックバック考察―藤野と京本、ドアの下をくぐる一枚の紙)。短編を並べて読むと、藤本タツキが同じ問いを角度を変えて何度も撮り直している作家だとわかります。
藤本タツキ作品にまだ慣れていない人は、短編から読むルートもあります(記事: 藤本タツキ作品はどこから読む?目的別の3つのルート)。『さよなら絵梨』は、そのルートの中でも短時間で読み切れる1本です。
200ページという分量も、この反復を成立させるための土台だったのかもしれません。1回きりの短い読切では、3回分の爆発を積む余白そのものが取れなかったはずです。長さそのものが、仕掛けの一部だったと考えると、読切としての厚みにも意味が出てきます。
僕自身、この短編を読み返すたびに、爆発そのものより「今このコマ、誰の目線なんだろう」で立ち止まる時間のほうが長くなっています。次に開くときは、ぜひそこを数えながら読んでみてください。

