2008年、スウェーデンで1本の吸血鬼映画が作られました。ヒロインの名前はエリ。副題は「200歳の少女」です。それから14年後の2022年4月11日、『少年ジャンプ+』に200ページの読切が載りました。ヒロインの名前は絵梨。
この2つが似ているらしい、と聞いてこのページを開いた人が多いと思います。映画は観ていない。でも何がどう似ていて、観ていないと漫画の理解に穴があるのか、そこが気になる。先に答えを言うと、穴はありません。集英社の紹介文も英語版VIZの紹介文も、映画には一言も触れていないんです。『さよなら絵梨』は漫画だけで閉じています。
ストーリーまで似ているわけではありません。型は同じ、筋は別です。出会いの場所も、そのあと2人が何をするかも重なりません。ただ、映画を知ると漫画の見え方が増える場所は確かにあって、名前の読みが同じ、だけの話ではありません。逆に、漫画がはっきり映画から離れている場所もあって、僕はそっちのほうが面白いと思っています。
『ぼくのエリ』は3つある、まずそこから
映画の筋は、これだけ知っていれば読み比べには足ります。
内気で友達のいない12歳のオスカーは、隣の家に引っ越してきた不気味な少女エリに恋をする。
そのエリは、人の血を吸いながら町から町へ移り住み、200年生きてきた吸血鬼です。映画.comの解説もここまでで止めています。
基本情報も同じページから。2008年のスウェーデン映画で、原題は Låt den rätte komma in。監督はトーマス・アルフレッドソンです。原作はヨン・アイビデ・リンドクビストの小説『モールス』で、脚本も原作者本人が書きました。
日本公開は2010年7月10日。115分、PG12です。2008年のトライベッカ映画祭では最優秀作品賞(Founders Award for Best Narrative Feature)を受けています(Tribeca プレスリリース)。
ややこしいのは、同じ原作から作られたものが3つあることです。
- スウェーデン映画『ぼくのエリ 200歳の少女』(2008年)。少年はオスカー、少女はエリ
- アメリカ版リメイク『モールス』(2010年、原題 Let Me In、監督マット・リーブス)。日本公開は2011年8月5日(映画.com)。少年はオーウェン、少女はアビー
- 原作小説『MORSE―モールス―』(ハヤカワ文庫NV、訳・富永和子)。少年の表記はオスカル、少女はエリ(早川書房。著者名の表記はこちらでは「ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィスト」)
見てのとおり、アメリカ版ではヒロインの名前がアビーに変わっています。エリと絵梨の共通点を確かめたいなら、観るのはスウェーデン版です。元ネタとされるのがこちらなのは、この一点だけでも腑に落ちます。
共通点は、名前以外にも4つある
藤本タツキ本人が『ぼくのエリ』を元ネタだと語った公式の記録は、僕が確認できた範囲では見つかっていません。だからここから言いたいのは「作者が参照した」という話ではありません。公式の文言を横に置けば誰の目にも見える共通点です。
漫画側は、集英社の書誌ページがこう始まります。
私が死ぬまでを撮ってほしい──病の母の願いで始まった優太の映画制作。
母の死後、優太は病院の屋上から飛び降りようとして、絵梨に止められます。そこから2人で映画を作り始める。単行本は2022年7月4日発売で、208ページです(集英社の同じページ)。藤本作品のなかでの位置は全作品・映像化年表で追えます。
共通点は4つあります。
名前。 エリと絵梨。読みが同じで、アメリカ版にはない共通点です。
孤独な少年と、外から来た謎の少女。 出会いの形を並べると、映画は隣の家、漫画は病院の屋上です。場所も状況も違うのに、「孤独な少年のところへ謎の少女が来る」という型は同じ。トライベッカの審査員は受賞理由に「孤独と疎外(loneliness and alienation)の探求」を挙げています(先ほどのプレスリリース)。集英社の書き出しも「自殺しようとした優太」。映画と漫画は、同じ場所から歩き出しています。
200という数字。 副題の「200歳」と、ジャンプ+掲載時の全200ページ(電ファミニコゲーマー)。数字は確かに一致します。意図したものかどうかは、作者の発言がない以上わかりません。単行本は208ページなので、この一致を口にするときは「掲載時」と限定するのが正確です。
年を取らない吸血鬼。 映画のエリは、観る前から「永遠に年をとらないバンパイアの少女」です。漫画のほうは、集英社が「絵梨はある秘密を抱えていた」と書き、VIZも “an explosive secret” と書くだけ。
ここから先は漫画の終盤の内容に触れます。 作中で絵梨は、自分を吸血鬼だと語ります。年を取らない少女という設定が、ここで映画と重なります。
名前、孤独な少年、200、吸血鬼。4つ並べば、共通点を指摘されるのも無理はないでしょう。
別れる場所、見る側と撮る側
映画は少年の側から語られる物語です。映画.comの解説は、オスカーを主語にして筋を説明しています。エリに恋をするのはオスカー。少年は、少女に引き寄せられて見る側にいるわけです。
漫画の優太は、同じ場所に立っていません。カメラを持っています。集英社の書き出しからして主語は「優太の映画制作」で、VIZに至っては、そのものずばり “Young filmmaker Yuta” です。
リアルサウンドの島田一志氏(2022年4月14日)が、この読切のコマ割りを説明しています(リアルサウンド)。横長のコマを縦に4つ並べたページは、優太がスマホで撮った映像だと。つまり「スマホの画面の形」をコマに見立てたフレームです。基本は手持ちカメラの映像で、要所で「手ブレ」をあえて入れる。ドキュメンタリー風に作られたフィクション、モキュメンタリーの形です。
ということは、読者が見ている絵のほとんどが、優太のカメラ越しなんです。映画の観客はオスカーと一緒にエリを見ていた。漫画の読者は、優太が撮った絵梨を見ています。エリは見られる側、絵梨は撮られる側。同じ「少年と謎の少女」でも、少年の立ち位置が一段ずれています。
差はまだあります。吸血鬼という設定の置き場所です(ここも終盤の話です)。映画のエリは、解説の時点で「200年間も生きながらえてきたバンパイア」でした。観る前から、吸血鬼は前提として置かれている。隠すものではなく、この映画のジャンルそのものです。
漫画では、絵梨が自分を吸血鬼だと語る場面が終盤に来ます。しかもそれが本当なのか、優太の映画のなかの作り物なのか、読んでいる側には決められない形で置かれている。集英社の「現実と創作が交錯し」とVIZの “an explosive secret” は、この構造を公式が言い表した言葉です。作中で父親が口にする「ファンタジーをひとつまみ」のとおり、吸血鬼は漫画ではジャンルではなく、隠し味として入ってきます。
映画では入口にあったものが、漫画では出口の手前に置かれている。この置き場所の差が、そのまま題名の差につながっていきます。
「ぼくのエリ」と「さよなら絵梨」、視点が逆
原題 Låt den rätte komma in、英題 Let the Right One In。直訳すると「正しい者を招き入れよ」といった意味です(公式の日本語題ではありません)。邦題の「ぼくのエリ」も、少年の側からの「ぼくの」。どちらも、エリを迎え入れる側の言葉になっています。
アメリカ版の原題は Let Me In。今度は「入れて」と、少女の側からの言葉です。そして漫画の英題は “Goodbye, Eri”(VIZ)。別れの言葉。
では、誰が誰に「さよなら」と言う題なのか。ここでも漫画の終盤に触れます。 終盤に、大人になった優太が絵梨と再会する場面があります。映画の題はどれも、少年と少女が一緒になる方向を向いていました。漫画の題だけが、その後を向いている。出会いの物語ではなく、出会ったあとで別れる物語として題がついているんです。
これは僕の読みですが、「ぼくの」と抱える映画と、「さよなら」と手放す漫画は、同じ少年の2つの出口に見えます。招き入れた少年と、カメラを向けて見送る少年。優太が別れを言う相手は絵梨なのか、自分の撮った絵梨なのか、僕にはまだ決めきれません。爆発と結末そのものの読み解きはさよなら絵梨考察―爆発の意味と、カメラの持ち主が変わる瞬間に書きました。
次に手を止める場所
映画を先に観た人は、漫画のこの2か所で手が止まると思います。
- 出会いの場面。映画では隣の家に越してきた少女が、漫画では病院の屋上に立っている。場所が変わると、少女が「来た」のか「いた」のかも違って見えます
- 絵梨が画面に映っている場面ぜんぶ。映画でエリを見ていた目が、漫画では優太のスマホのレンズになっている。横長4コマがスマホの画面だと知って読むと、絵梨はずっと撮られていると気づきます
漫画から映画に入る人は、逆向きに驚くと思います。漫画では終盤まで伏せられていたものが、映画では解説の1行目から明かされている。同じ設定がこんなに違う顔をするのかと、見比べる楽しさがそこにあります。
観るなら、スウェーデン版を。理由は最初の節のとおり、少女の名前がエリなのはこちらだけだからです。配信状況は各サービスで確かめてください。
同じ読切シリーズの『ルックバック』は藤野と京本、ドアの下をくぐる一枚の紙で書いています。藤本作品をどこから読むか迷うなら目的別の3つのルートへ。
エリは200年生きました。絵梨に会い直すのは、1冊で足ります。

