ファイアパンチ考察―結末の「映画」が意味するもの

『ファイアパンチ』は少年ジャンプ+で2016年4月18日から2018年1月1日まで連載されました。話数は全83話、単行本は全8巻です(出典: S-MANGA.NET)。藤本タツキの作品の中でも、連載期間と話数の長さでは指折りの規模です。それでもネット上で語られる量は、『チェンソーマン』や『ルックバック』に比べて明らかに少ないと僕は感じています。読み返すと、理由はすぐ分かります。ずっと苦しい話が途切れずに続くからです。

でも、苦しいだけの話なら、藤本タツキがその後も似た仕掛けを繰り返し使うことはなかったはずです。読み返して気づいたのは、『ファイアパンチ』にはこの作家がずっとこだわり続ける発想が、いちばん粗く、いちばん強い形ですでに入っているということでした。

死ねない体に科された罰

アグニには、傷がすぐ治る「祝福」という力があります。指揮官ドマに村を焼かれて妹ルナを失った日、アグニ自身も火を放たれます。祝福のせいで彼は死ねず、燃えては再生し、再生してはまた燃える体になりました。

ふつうの復讐劇であれば、傷を負った主人公が力をつけて敵に立ち向かう形で進みます。でもこの作品は、そもそも死ねない体を罰として与えるところから話が始まります。

死ねないことは、一見すると最強の力に見えます。ところがアグニに与えられたのは、痛みだけが途切れずに続く体でした。回復と苦痛が同じ現象として起きる。この設計そのものが、単純な勧善懲悪を最初から拒んでいると僕は読んでいます。

復讐を果たしても、燃え続ける体は元に戻りません。目的を達成したところで、苦しみに終わりが来る保証はどこにもないんです。ゴールのない旅に主人公を送り出すところから、この物語はすでに始まっています。

少年誌的な力の物語なら、強さは積み上げていくものとして描かれます。修行し、覚醒し、敵を超えていく。そういう右肩上がりの快感を、この作品は最初から用意していません。

燃え続ける体は、強くなるほど苦しみも長引く体でもあります。読み進めるほど楽になるどころか、読み進めるほど息苦しさが増していく。読者が味わうこの感覚自体が、物語の主題と地続きになっていると僕は感じています。

復讐者の物語に割り込んでくる、カメラを持った少女

旅の途中で出会った少女トガタは、映画を撮るためにアグニの受難を利用しはじめます。ここから『ファイアパンチ』は、単純な復讐譚とは別の顔を見せはじめるんです。

トガタにとって重要なのは、アグニが本当に救われるかどうかではありません。彼の苦しみが、いい画になるかどうかです。壮絶な体験ほど、映画の題材としては魅力的になります。皮肉なことに、アグニが苦しめば苦しむほど、トガタの作品は完成に近づいていきます。

復讐の主体だったはずのアグニは、いつの間にか誰かの作品の素材に変わっています。彼が主役のように見えて、実際に物語の舵を握っているのはカメラを持つ側だと僕は思います。武器を持つ敵より、カメラを持つ味方のほうが、この作品では手強い相手として描かれています。

この世界には、祝福を持つ者の肉を口にして、その力にあやかろうとする人々も出てきます。力のある体は、そのまま誰かに消費される資源としても描かれているわけです。トガタがアグニを撮り続けるのも、僕にはこの構造の変奏に見えます。肉を食べる代わりに、彼の人生そのものを”素材”として食べている。飢えを満たす対象が、食料から物語に変わっただけなんです。

敵に体を焼かれるのと、味方に人生を撮られるのは、一見まったく違う暴力に見えます。でも、どちらもアグニの体を自分の目的のために使っている点では同じです。この作品が息苦しいのは、暴力の出どころが敵味方の線引きをあっさり越えてくるからだと僕は思っています。

聖人に仕立てられるということ

トガタの編集は、アグニをただの被写体では終わらせません。苦しみながらも死なない男に、救世主のような意味を与えていきます。

信仰は、わけの分からない苦しみに理由をくれます。彼の受難に「誰かを救うための犠牲」という意味づけがされたとたん、アグニ本人の意思とは関係なく、物語はひとり歩きを始めるんです。

これは、宗教そのものを揶揄する話ではないと僕は思っています。むしろ、物語を作ること自体が持つ危うさの話です。誰かの痛みに意味を与える行為は、同時にその痛みを他人が扱いやすい形に加工する行為でもあります。トガタがやっているのは、まさにこの加工です。

しかも、この加工を望んでいるのはトガタだけではありません。救いのない世界で、救世主を求めているのは周りの人々のほうでもあります。作り手が一方的に神話をでっち上げるのではなく、受け手の側にも神話を欲しがる飢えがある。この双方向の飢えが、アグニをますます逃げられない立場に追い込んでいきます。

だからこの構造は、トガタひとりを悪役にして片づけられません。カメラを向ける側と、その映像を求める観客の側。両方が揃って初めて、ひとりの人間が聖人に仕立て上げられるんです。

こういう読み方には、反論もあり得ます。トガタは狂言回しの脇役で、物語の芯はあくまでアグニの復讐にある、という読み方です。僕もその軸は否定しません。ただ、復讐の行き先を最後まで決めているのがトガタ側だという構図を見ると、狂言回しにしては役割が大きすぎると感じます。

復讐劇として読むか、加工される者の物語として読むか。どちらか一方が正解というより、この2つの軸が最後まで並走している点に、この作品の読みにくさがあると僕は思っています。どちらの軸で読むかによって、同じ場面の手触りがまったく違って見えてくるんです。

ここが起点だったと、僕は読んでいる

ここからが、この記事でいちばん言いたいところです。

『ファイアパンチ』の連載が終わったのは、先ほど触れた2018年1月1日でした。その約11か月後の2018年12月3日に、『チェンソーマン』第一部の連載が始まっています(出典: 少年ジャンプ公式)。さらに時間が進んだ2022年4月11日には、読切『さよなら絵梨』が発表されました(出典: 電ファミニコゲーマー)。『チェンソーマン』第二部の最終回は2026年3月25日です(出典: ナタリー)。

こうして日付を並べると、『ファイアパンチ』はこの中でいちばん早い作品だと分かります。誰かの受難がカメラに撮られ、作品として編集されるという仕掛けは、この最初期の連載作からすでに動いていたことになります。

同じ仕掛けは、形を変えながらその後の作品にも顔を出します。『さよなら絵梨』では、優太が撮っていたはずのカメラの持ち主が、ラストで入れ替わります(記事: さよなら絵梨考察―爆発の意味と、カメラの持ち主が変わる瞬間)。『ルックバック』でも、藤野が描いた一枚の紙が、本人の手を離れて物語を動かします(記事: ルックバック考察―藤野と京本、ドアの下をくぐる一枚の紙)。チェンソーマン最終回の「器の継承」も、本体が消えたあとに何が残るかという、同じ問いの延長線上にあると僕は考えています(記事: チェンソーマン最終回、232話の自己捕食をどう読むか)。

誰かの人生が、別の誰かの手で作品に加工される。加工した側とされた側の力関係が、最後にひっくり返る。この往復運動を、藤本タツキは何年もかけて繰り返し描き直しています。その最初の、いちばん粗削りな試作品が『ファイアパンチ』だったというのが、この記事での僕の見立てです。

こう並べると、後の作品ほど仕掛けが上品になっていくのも見えてきます。『ファイアパンチ』では、燃える体と暴力がそのまま画面を占めます。『さよなら絵梨』や『ルックバック』になると、暴力は後景に退いて、代わりに喪失と創作の関係が前に出てきます。テーマの骨格は同じでも、見せ方はこの10年で確実に変わっているんです。

だとすれば、『ファイアパンチ』を読む意味は、藤本タツキの「原石」を見ることにあると僕は思います。後年の作品で丁寧に磨かれた仕掛けが、まだ研磨される前の、荒っぽい形のまま置かれている。読みづらさそのものが、この作品を読む価値の一部になっています。

結末に紛れ込む「観客」という仕掛け

終盤、それまで読んできた出来事そのものが、誰かに編集された「映画」だったと分かる場面が置かれています。

この仕掛けが効いてくるのは、読者自身もずっとアグニの受難を読み物として追いかけてきたからです。ページをめくりながら彼の苦しみを追っていた僕たちは、物語の中の観客と、実はそう遠くない位置に立たされていたことになります。

後の『さよなら絵梨』のラストは、この仕掛けをずっと静かな形で反復しています。カメラという装置が最後に前面へ出てくる構造は同じでも、後年の作品のほうが痛みの描き方は抑えられています。『ファイアパンチ』の生々しさと並べると、その差がよく見えてきます。荒々しい試作から、静かな完成形へ。僕はこの2作を、そういう対で読んでいます。

ここでもう一つ気になるのは、”映画”だと分かった瞬間、それまでの出来事の重みがどう変わるかです。作り物だと分かれば、痛みは軽くなってもよさそうなものです。でも実際には、軽くならない。撮られていたと分かったところで、アグニが受けてきた苦しみそのものが消えるわけではないからです。

むしろ、この仕掛けが暴くのは痛みの真偽ではなく、痛みを消費する僕たち読者の立ち位置のほうだと思います。カメラの存在に気づかされた瞬間、読んでいた側も物語の外に立てなくなる。この作品を読み終えたあとの後味の悪さは、たぶんここから来ています。

読み返す夜に、どこから入るか

『ファイアパンチ』は、藤本タツキ作品の中でもかなり読むのに体力がいる作品です。藤本タツキ作品にまだ慣れていない人は、先に短編から読むルートもあります(記事: 藤本タツキ作品はどこから読む?目的別の3つのルート)。

ただ、後年の作品を先に読んでから戻ってくると、見え方はかなり変わってくるはずです。『さよなら絵梨』や『ルックバック』、『チェンソーマン』の結末を知ったうえで『ファイアパンチ』を開くと、粗削りだったはずの仕掛けが、実はそのまま生き続けていたことに気づきます。

僕自身、読み返すたびに、アグニの苦しみそのものより、その苦しみを撮っているトガタの手つきのほうが気になるようになりました。燃え続ける体そのものより、それを見ているカメラの位置を追う。次に読み返すときは、そこに軸足を置いてみようと思っています。

いちばん早い作品を先に読むか、後年の作品を経由してから戻るか。どちらの順番で読んでも、『ファイアパンチ』がしんどい作品であることに変わりはありません。それでも、他の作品を経由してから戻ってきたときのほうが、この作品が背負っていたものの重さは、僕にははっきり伝わってきました。

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